昭和四十九年十月六日 朝の御理解 第七十三節
                                                                                                                                                                御理解 第七十三節 「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直い  ことぞ。
                                                                                                                                                                 変人とは直い事ですから、真直い事。言うならば、信心一直線という事。どのような場合、どのような事であっても、よしそれは、人が非難をしたり、悪口を言うたり、笑われたりするような時であってもです。これが本当だと思い込んだら、それを真直に、それこそ信心一直線に進んでいくという事。
 だから、信心は、変人にならなければ、信心はできぬ。変人とは直い事。
 よく世間で、あの人は変人じゃと。あの人は風雅人だというふうに、この辺では申します。自由げもんとも言う。ありゃなかなか、自由げもんじゃけん。だから、自由げもんとか風雅人というのとは、違う訳です。所謂、直い事なんです。これが本当だと信じたら、それを、もう、真直に、所謂、一直線に進むという事です。信心一直線。
 昨夜は、五日の壮年部会の例会でございました。昨日は、久留米の繁雄さんの話と、石井喜代司さんの話で持ち切りでした。こういう発表をしとります。
 繁雄さんが、当時のかばめに御神縁を頂かれたのは、奥さんの病気からである。リュウマチ・神経痛。もう、温泉という温泉、病院という病院、薬という薬を、ありとあらゆる治療をされたけれども、身体が、所謂、動かない。それで、すぐ近所に小坪さんという久富さんの義弟にあたる方が、大変奇跡的なおかげを受けられて、それこそ熱心にお参りをして来ておりましたから、その方のお導きで、その方が、奥さんをリヤカーに乗せて、そして、毎日毎日参って来ておりました。段々おかげを頂いて、さしもの病気も、五体が、段々、自由がきくようになり、それで、まあ、御主人の繁雄さんが、従兄弟にばっかり御迷惑かけちゃならんから、自転車に乗せて、そしてお参りしようと言うて、自転車で送って来られるようになり、少しづつは歩く事も出来るようになる。当時のかばめだから、勿体島あたりまでは送って行くけん、これから先は、お前が、そろそろ歩いて行けといったような事が、長く続いた。ある丁度、月次祭の日でした。勿体島まで送ってやるつもりであったけれども、もうここまで来たから、時間も少し遅くなっとるから、あそこの門口のところまで送ってやろうと言うて、送ってみえられた。
 丁度、お月次祭が済んで、御説教の時であった。その当時、かばめは狭いですけれども、もうとにかく、立の余地もないほどしの参拝者であるし、もう、庭に立ってから、お話を頂く時でした。私は、御説教台、当時も説教台というても、説教台でもなかったかもしれませんですね。立ってお話をしとりましたら、見知らぬ人が、庭に立っておられます。それが、今から考えますと、久富繁雄さんであった。奥さんを送って来て、たまたま御理解を頂かれて、本当に神様の中の神様は、この神様だと。とりわけ、百姓するなら、天地の親神様の御恩徳、御恩恵を分からしてもろうて、これは、百姓がする神様だというふうに感じられた。初めて御説教を頂かれた。それから、一心に御夫婦で信心をされるようになった。奥さんは、元の健康な身体になり、百姓が段々出来られるようになった。
 それから二十数年間のおかげを受けてこられた。本当に有難かった事。苦しかった事。それを貫き通された話をなさいました。なんべんも聞いた話でしたけれども、本当に、信心、いわば一直線とは、こういう生き方だろうと私は思うた。子供さんが、大変な病気をされた。おかげを頂いた。もう、本当に間一髪で、おかげを頂かれた。御両親がおられましたが、大変な、二人共長生きであったけれども、二人共、とこに付かれて何年間。床に付きっきりであった。奥さんは、いわば、それにかかりっきりにならなければならない。子供達は、まあだ大して役に立たない。まあ、繁雄さん一人での、あれだけの、言うならば、百姓をしてこられる。こられた。御両親の病気は奥さんが受け持たれる。繁雄さんは百姓の方へ。それこそ、田も畑も草だらけ。手が回らんのです。本当に、男泣きに泣くことも何回かあったけれども、そこを辛抱させて頂いて、おかげを頂いてきて、御両親二人をみとられて、それから、子供さん達が、娘さんが三人息子さんが二人。それぞれの家を持たせ、結婚をさせた時の話を、本当に、金銭上にも、万事御都合お繰り合せの上にも、今のような状態では、どうして結婚させるじゃろうか。又、どうして嫁ごをもらうじゃろうかと思う事も、その都度都度、それこそ不思議な不思議なお繰り合せを頂いて、金いりがあると、久富さんの家の金いりがあるとなると、もう、一躍、お野菜の値段が上がったというふうに、その時分のおかげの事を、話しておられます。
 今の久富、弟の勇さん。それから、今、善導寺に洋服屋をしておられる久富洋服店。家別れをされる時にも、それぞれに、親方としての、言うならば、分家を二軒させてもらう時も、万事万端の上に、御都合お繰り合せを頂いた。そして、言うならば、必要な時には必要に応じて、それは、苦しいところもあったけれども、それこそ、男泣きに泣くような事もあったけれども、おかげを頂いた。子供達五人の、言うならば、嫁ももらってやった。又、嫁にもやった。しかも、その一人一人が、本当に、どんなに考えても勿体ないようなおかげを頂いておる。そういう中に、田んぼも少しづつ増えていった。段々おかげで、言うならば、人から笑われるような、草をはやしたりといったような事もなくなった。家も、段々綺麗になった。とにかく二十数年の事を振り返ってみると、本当に、ようもようもここまでおかげ頂いたものじゃあると、家族中で話をさせて頂いて、信心の有難さ。信心家として、それから、信心が、兄弟親戚の上まで、信心が広がって、今日おかげを頂いておる。本当に振り返ってみると、いろいろな事があったけれども、ただ一途におかげを頂いてきたという話を、それこそ、時間をかけて話されました。ほんなこつのぅ、二十何年間、ちょっと簡単の事あるけれども、本当に様々の事があった。
 私は、その話を聞かせて頂いてから、私がそれに付け加えた事でございました。本当に素晴らしい事。信心生活という事は素晴らしい事だと。しかも、それを、どんな場合であっても、迷わず疑わず、それこそ貫き通されたという事。そして、もっと素晴らしい事は、繁雄さんの信心は、言うならば、その二十数年間、御用を頂き続けてこられたという事だと、話したことでした。
 久留米の光橋先生が亡くなられてからですから、私の身の回りの事から何から御用して下さっとったけれども、ああして、身体が弱られて亡くなられました。その前後から、言うならば、お百姓さんの身でなら、私の御用して下さるために、まず第一に、お茶の稽古をなさいました。夜の御祈念に参って来られると、まあ、雨の日だけがお茶の日で、雨の降る日だけは、お茶の稽古をされました。
 それで、煎茶とか番茶とか玉露とか、それぞれお抹茶まで一通り稽古をされて、もう、煎茶、お番茶は、繁雄さんの入れなさったのが、一番美味しいと言われるくらいに、まあいうならば、あちらはごぼうの産地ですから、ごぼう掘り片袖に、お茶をするなんて、ちょっと似つかわしくないのだけれども、まあ親先生の御用さしてもらうならというので、それこそなくなくの辛抱であり、なくなくの稽古であったと思います。そして、時間のかかる御用。私が下がるあの時分は、十時。今は、九時ですけど、当時は十時でしたから、十時の御祈念が終わってから、それから、私がお茶を一服頂き、それから、皆さんも御承知のように、足があんなに不自由になって立たなくなりました。ですから、あの時分から、足を揉んで頂くようになりました。けれども、その時分から、繁雄さんの手は、人が薬手と言うくらいにです。繁雄さんがあたってやられると痛いかゆいが治ると、人が言うくらい、事実、又、おかげを頂きました。
 そういう例えば、家ではもう、田んぼ、畑には草をはやして、人から笑われるような事があっても、なら、一日だって御用を疎かにされた事はなかった。まあ、一日だってと言うと、まあ嘘になるかしれませんけれどもです。それを頂き、御用を頂き続けられた事。もうそれこそ、私がどこか行くと言えば、影と形のようについてみえられる。みえられる事になり、所謂、二十年あまりの信心。そういう様々な中を通らして頂きながら、こんな訳ですから、今日は御無礼するという事がなかった。だから、繁雄さんの話を頂かして頂いてです。ゆうべ、私が付け加えたのは、本当に信心がね、そのようにして、所謂信心一直線で、おかげを頂かれたが、と同時に、参って拝んでお願いをするというだけではなくて、あなたの場合の素晴らしい事は、御用を一途に頂き抜かれ、今日に至っておるという事が素晴らしいですよと言うて、話したことでした。
 もうこここ十年もなりましょうか。ここの御初穂の整理は、総代さんがなさる事になりまして、繁雄さんが毎朝受け持たれます。朝の御祈念に参って来て、皆が帰った頃から、御初穂の整理をされますと、やはり八時半頃までかかります。子供が、私の誰か一人が御手伝いをさして頂きます。しても、やっぱり八時半に私がここを下がる時間より、ちょっと暇がいるくらいです。今は。そして今度は、私が下がりますから、お茶を頂きます。それから、足を揉んで頂きます。もう帰られるのは昼。やがて、昼頃までかかるでしょう。それをです。降る日も照る日も欠かされない事。しかも、それが二十年間続いておるという事ですよ。なら、信心が楽な。ただもう、おかげおかげ有難い事ばっかり。何不自由する事もない。もうと言うのではなく、家では手が足りない中にです。それをやってのけてこられたという事です。とてもとても私は、変人にならなければ出来る事じゃないと思います。
 その後に、石井喜代司さんが発表しておられました。とにかく自転車の稽古をするのに、倒れようとするのにです。倒れまいと。例えば、左の方へ倒れようとする時に、右の方によったら、必ず倒れるんだという事を話しておられました。
 皆さんも、自転車に乗られる方は、体験がございましょうけれども、右の方に倒れようとする時には右の方へ。倒れる方へハンドルを向けると、自転車が真直になるという意味を話とります。
 例えば、一つの頂上を目指して、山登りを致します。確かに、山登りですから、身体もきついし、足もだるうなるです。だから、身体をきつ《いの》を休めて。又は、足の痛《い》のようなるまで待ってから又、登ろうといった事では、山登りは出来ない。きつい事は、もう承知の前。足もだるいという事は、もうだるいけれども、頂上を目指して登るのが、山登りである。登山だというわけなんです。
 信心も、ちょいと疲れたから一時止めろ。又、ようなってから参ろう。ちょっとこげな都合があるけんで、ちょっと山登りは一時ばかり一服しようといったような事ではね。信心は出来ん。足もきつかろう。身体もやはりだるいけれどもです。それを登るのが山登りだ。信心も同じだという意味の話を、いろいろあの人風に話しておりましたのを聞き終ってから、私が申しました。
 今、繁雄さんが話された内容が、言うならば、喜代司さんがお話になった事の、喜代司さんの話の内容が、今は、繁雄さんの話された話だというて話した事でした。もう、倒れそうにあるから、もう難しかろうごとあるからと言うてもです。例えば、今日はこんな風で、忙しゅうございますからと言うて、御用なら御用を欠ぐような事がなくて、それは、忙しい上に、草ははえた上に、その上に何時間も何時間も御用に捕らわれるのですから、なら、倒れる方に向けるのと同じ事です。
 それでも、だから倒れなかった。今日まで信心が続いただけでなくて、家もおこす事が出来た。田んぼも増える事が出来た。そして、家庭の中の親としての責任。子供達のしつけも、それぞれに出来て、今日では一家中の者がです。日々笑いさざめきしながら、御用させて頂いておるという事。もうちょいときっかけんで、もう頂上はそこに見えよるけれども、ここに一時ばかり休もうと。足のだるかつがようなるまで、ここで一時ばかりよこうとこうという事なしに、やはり、それを参り続けられたという事ですから。
 丁度今日、繁雄さんの話された、言うならば、内容がです。喜代司さんが話された、その事なんです。喜代司さん、今あんたが話した事そのままにです。日常生活の上に現わしていくという事が、信心生活だと言うて、お話した事ですけれども、信心は、そりゃそうでしょうね。朝は早う参ってみえとりますから、誰も知りません。けども、帰る時は、十時か十一時頃。やがて御用があるときには昼頃。お百姓さんのくせに、洋服着込んで、ネクタイピシャッとしめて、村中の皆が畑に出ておる田んぼの中に出てきとる中を、帰っていかれる。ちょいと本当に、繁雄さんばっかりは、自分方の田んぼは、てんで草だらけにしてから、金光さんにばかり参ってと言うて、笑うた人も沢山あったとろうと、こう思うけれどもです。それこそ信心一直線である。
 人が何と言おうが、変人と言おうがです。やっぱり、それば貫いてこられたという事をです。私は、ゆうべお話を聞きよったら、改めて、それを感じるのと同時に、今日は、ここの七十三節を頂いて、はぁ、こういうような事が、変人にならなければできんという事だなあと思います。
 「信心は、変人にならなければ、信心は出来ません。変人とは、直い事。」と教えておられます。直いという事は、どういう事があっても、迷わず疑わず、しかも、どんなに。例えば、きつい事があっても、それを貫き通すという信心一直線というようなおかげは、変人にならなければ、できる事ではないと思うですね。どうぞ。